このページでは、2019年2月より開催された特設展「平田郷陽の市松人形」の主題である、市松人形の制作にあたった二世平田郷陽(本名:恒雄 以下郷陽)について紹介いたします。
郷陽は、生人形(※)職人である初世平田郷陽の長男として、明治36年(1903年)、東京浅草に生まれました。父に手ほどきを受けた生人形の製作から人形師としての道を歩み始め、その後大きく分けて三度の作風の変遷を遂げながら晩年まで人形を製作し、昭和56年(1981年)にその生涯を終えます。
今回の特別展で紹介する丸平文庫蔵の市松人形は、昭和初期に製作されたものです。この時期は郷陽にとって、米国から国家的友情の証として届けられた「青い目のお人形」に対する、日本側からの「答礼人形」の製作における成功を通じ、一度目の作風の転換を遂げた時期でした。生人形およびマネキンを主に作っていたころに重視されていた、即物的な写実性の素地の上に、幾分かの作家性が加わってきた時期といえます。
特に今回の展示品においては、「人形として時間上空間上に固定されているその存在の実物を超えた、見ている人間に普遍性を思わせる生活感覚」や、「少女的なあどけなさと女性的なあでやかさの移ろいゆく一条の川のような流れの中で、輻輳した色味の重なり合った一瞬のよどみ」や、「そこにありうべき心情が鑑賞者に想像されるような、空の器としての魂の座」といった質感が表れています。
(文:天児 這子)
(※)「生人形」──いきにんぎょう。生きているような人形、との意味で、人間を迫真的に表した人形のこと。
幕末期から明治期にかけて見世物として流行したが、その後映画などの新しい娯楽に圧され、衰退した。
≪参考文献≫
「週刊朝日百科 週刊人間国宝 工芸技術人形1」 2006年7月2日発行 朝日新聞社
「歿後30年 平田郷陽の人形」 2011年5月28日発行 公益財団法人佐野美術館